浅草神社
浅草神社は、東京都台東区の、浅草寺本堂に隣接して鎮座する浅草の鎮守。飛鳥時代、浅草寺境内に浅草寺草創に関わった者三名を祀って創建されたと伝え、明治の神仏分離までは浅草寺と一体的に信仰されていた。
浅草寺とは違い社殿は第二次世界大戦の戦災焼失を免れたため、国の重要文化財に指定されている。また5月の三社祭は東京でも有数の大規模な祭礼である。
拝殿は国指定重要文化財。江戸前期に当たる1649年頃に建立。
写真左端の幣殿は1649年頃の建立で国指定重要文化財。写真では見えないが、この幣殿は本殿と連結して1棟となっている。
幣殿が本殿と拝殿の双方、または拝殿のみと接続しているのではなく、当社のように本殿のみと接続して1棟となっているのは、近世以前の社殿では珍しい(近代では大社に例があるが、これらの幣殿は拝殿に近い)。
写真右端の拝殿の左側にある渡廊は拝殿の国重文指定に附指定されており、幣殿と拝殿は直結せずに渡廊を介して結ばれている。
このように当社の社殿は、若干変則的な構成の権現造である。
本殿は国指定重要文化財。この写真ではよくわからないが、幣殿と連結され1棟となっている。なお、現在は社殿周囲の樹木が成長し、この写真のような姿を見るのは難しい。
被官稲荷神社
本社の背後には末社の被官稲荷神社が鎮座する。
覆屋は大正期の建立。
本殿は江戸末期の1854年建立で、屋根は杉皮葺。
浅草神社の沿革
浅草寺・浅草神社の由緒では、飛鳥時代の推古天皇36年(西暦628年)、漁師の檜前浜成・武成兄弟が隅田川で引き上げた像を、地元の教養人の土師真中知が観音像だと判定し、剃髪して自邸を寺として信仰したのが浅草寺の草創とされる。そして舒明天皇11年(西暦639年)の真中知没後、真中知の嫡子に、先述の3人を浅草寺本堂の傍らに祀るよう霊夢を通じて託宣があったため、三社権現として祀ったのが三社権現(現在の浅草神社)であると伝え、神仏習合の世界観の中では、土師真中知は阿弥陀如来の、檜前浜成は観世音菩薩の、檜前竹成は勢至菩薩の化現とされた。なお、檜前兄弟が観音像を引き上げた地とされるのが駒形堂の辺りである(異伝として花川戸で引き上げられたとの伝承もある)。
この様に隣接する浅草寺とは縁が深く、三社権現として浅草寺の一部のように信仰されてきたが、明治の神仏分離で分離されて明治元年に三社明神社となり、さらに明治6年に浅草神社となった。ただし浅草寺自体は当社の旧別当寺ではない。旧別当寺は浅草寺の子院であったが、当社と分離された後、明治中頃に他寺に吸収されて消滅した。
年中行事
江戸芸かっぽれ
毎月の第一日曜日(他の行事がある場合はずれることあり)、境内で正午から江戸芸かっぽれが奉納される。かっぽれは江戸時代に始まった大道芸の踊り。
初詣
浅草寺と境内を接していることもあり、初詣には多くの参拝客が訪れる。また宮神輿3基も公開される。
節分祭
2月3日の節分祭においては、巫女舞の後に豆まきが行われる。なお、隣の浅草寺の節分会では、都内でも有数の規模の豆まきが行われる。
本尊示現会
3月18日に催される浅草寺の本尊示現会は、西暦628年のこの日に本尊の聖観音像が隅田川から引き揚げられたことを祝う法要。前日の17日に浅草神社の宮神輿3基が祭神の神霊を乗せて浅草寺の本堂内に一泊して聖観音に対面し、翌朝に浅草神社に還御する(浅草神社は浅草寺の創建に関わった3名を祀る神社)。この日、浅草神社のびんざさら舞や浅草寺の金龍の舞も奉演される。この行事についての詳細は「浅草寺 本尊示現会」の記事を参照。
被官稲荷神社例大祭
浅草寺の本尊示現会と同日の3月18日には、浅草神社境内末社である被官稲荷神社の例大祭も催され、式典の後、幾つかの演芸が奉納される。この行事についての詳細は「浅草神社 被官稲荷例大祭」の記事を参照。
浅草こども歌舞伎まつり
3月には浅草神社の神楽殿で「浅草こども歌舞伎まつり」も催され、数日間に渡って主に関東各地の子ども歌舞伎が披露される。地元浅草の子ども歌舞伎も参加する。この行事についての詳細は「浅草こども歌舞伎まつり」の記事を参照。
三社祭
三社祭は浅草神社の例大祭の異称で、東京でも代表的な祭礼の1つ。江戸三大祭の1つに数えることもある。例年、5月17日に近い金~日曜日に開催される。江戸時代は浅草寺の本尊示現会と一体的に3月18日に開催されていた。この行事についての詳細は「浅草神社 三社祭」の記事を参照。
夏詣
夏越の大祓が行われる6月30日から七夕の日である7月7日までの期間に催される夏詣は浅草神社が近年提唱している新しい習慣。境内ではコンサートなど各種イベントが催される。この行事についての詳細は「浅草神社 夏詣」の記事を参照。