神田明神
神田明神(神田神社)は、東京都千代田区の、JR中央線・東京メトロ丸ノ内線の御茶ノ水駅より徒歩5分の地に位置する、江戸の総鎮守。現在は神田、日本橋北側、秋葉原、大手町など108ヶ町の鎮守。
江戸時代は幕府の庇護の元、江戸総鎮守とされ、その祭礼である神田祭は、赤坂日枝神社の山王祭と共に天下祭として江戸城で将軍の上覧に供された。
また明治初期に一時的に准勅祭社の制が設けられた際には、その12社のうちの1社となった。(うち都区部にある10社は現在東京十社を名乗る)。戦前の社格は東京府(東京都)の府社に列し、現在は神社本庁の別表神社。
奈良時代の天平2年(730年)、大己貴命を祀って創建。鎌倉時代の延慶2年(1309年)、天慶3年(940年)に戦死した平将門を合祀。当時は現・大手町の将門首塚辺りに鎮座していたが、慶長8年(1603年)に神田駿河台に、更に元和2年(1616年)に江戸城の表鬼門(東北)に当たる現在地に遷座。
明治維新後、本殿から朝敵だった将門が境内社へ分祀され、新たに少彦名命が合祀された。将門は戦後に本殿に復帰したため、現在の祭神は、一ノ宮が大己貴命、二ノ宮が少彦名命、三ノ宮が平将門命、となっている。
神田明神の境内
社殿は関東大震災後、昭和9年にSRC造(鉄骨鉄筋コンクリート造)で再建。設計顧問は伊東忠太、技師は大江新太郎と佐藤功一。塗装は総漆塗。
第二次大戦後、コンクリート造の寺社建築は空襲被害の大きかった都市部を中心に急速に普及した。しかし戦前は、寺社(特に神社)は保守的なこともあり、余り一般的なことではなく、そのほとんどは関東大震災で罹災しかつ先進地域であった東京周辺に分布している(旧御真影奉安殿を戦後に流用した社殿を除く)。
神田明神の社殿はこの新素材を用いた寺社建築の代表例の一つであり、国の文化財に登録されている。また境内社の魚河岸水神社の本殿と拝殿も、昭和7年竣工のRC造。
随神門は木造で昭和50年建立。表側は随神像が、裏側には神馬像が収まる。
拝殿は昭和9年竣功。国登録有形文化財。
左から資料館、宝庫、西門、拝殿。資料館(平成9年竣功)以外は昭和9年竣功で国登録有形文化財。
手前は東門、神饌所、瑞垣、奥は拝殿、本殿。全て昭和9年竣功で国登録有形文化財。
獅子山は関東大震災で失われたものを平成元年に再建。「獅子は我が子を千尋の谷に落とす」様子を表している。この規模のものは珍しいが、23区内では世田谷区の玉川神社にもある。
拝殿横の馬小屋には、明(あかり)ちゃんと言う名の神馬が飼われている。
境内社
摂社には、三天王と呼ばれる江戸神社、大伝馬町八雲神社、小舟町八雲神社が、末社には魚河岸水神社、浦安稲荷神社、末広稲荷神社、三宿稲荷神社・金刀比羅神社、合祀殿、祖霊社がある。
三天王一ノ宮の江戸神社は大宝2年(702年)創建の、江戸最古の地主神で、慶長8年(1603年)に神田明神とともに江戸城内より遷座。
三天王二ノ宮の大伝馬町八雲神社も江戸時代より前に創建。かつては祭礼で日本橋大伝馬町に設けられた御仮屋へ神輿が渡御した。
三天王三ノ宮の小舟町八雲神社も、江戸城より神田神社と共に遷座。かつては祭礼で日本橋小舟町に設けられた御仮屋へ神輿が渡御した。
魚河岸水神社は、日本橋魚河岸(現・豊洲市場)の守護神として、大手町にあった頃の神田明神境内に創建。
RC造の本殿及び拝殿は昭和7年竣功。
浦安稲荷神社は天正年間(1573-92年)に内神田の鎌倉町に勧請され、天保14年(1843年)に神田明神境内に遷座。
三宿稲荷神社は内神田の三河町の鎮守で創建年代は不詳。金刀比羅神社は東日本橋の薬研堀に天明3年創建され、昭和41年に神田明神境内に遷座。
末廣稲荷神社は元和2年(1616年)頃の創建。
合祀殿は籠祖神社・八幡神社・富士神社・天神社・大鳥神社・天祖神社・諏訪神社の合殿で、平成24年建立。
祖霊社は平成16年創建。
祖霊社の裏にある忠魂碑の柵は、明治6年に神田川に掛けられた石橋である旧万世橋の欄干と親柱を利用。
主な神輿
一之宮鳳輦は昭和27年の製作。神田祭では大己貴命の神霊を乗せて巡行。
二之宮神輿は昭和48年製作。神田祭では少彦名命の神霊を乗せて巡行。
三之宮鳳輦は昭和59年製作で入母屋造。神田祭では平将門命の神霊を乗せて巡行。
大神輿は平成12年製作。台輪幅4尺1寸の大型の神輿。時々渡御する。
摂社江戸神社の宮神輿は、JR秋葉原駅前にあった神田青果市場の神輿として昭和33年に製作。台輪幅は3尺8寸。
江戸神社の社殿内に安置されており、ガラス越しに拝見可。
摂社小舟町八雲神社の宮神輿は昭和10年製作。神田祭で公開されるほか、小舟町八雲神社の例大祭で4年ごとに渡御する。
将門塚保存会大神輿は平成17年製作。八棟造で、前後に軒唐破風が付く。
鍛冶町一丁目町会の大神輿は珍しい入母屋造。昭和29年製作。
鍛冶町一丁目町会は小神輿も入母屋造。
主な年中行事
神田明神のお祭りとしては、例大祭である神田祭が東京有数の祭礼として著名。他に、1月初旬に行われる寒中禊や四條流庖丁儀式も、都内の寺社では他に行う所は少ない行事である。
また、境内摂社である小舟町八雲神社の例祭では、4年に一度、9月に神輿の渡御がある。
正月 - 初詣
神田明神は都内でも上位の初詣スポット。下の写真は元日の朝5時半頃だが、通常の神社なら閑散としているこの時間帯でも、多くの初詣客で賑わう。なお、境内では0時の新年の到来とともに餅つきが行われる。また、正月行事として1月上旬に社伝の神楽が「神楽始」で舞われる(撮影禁止)。
1月 - だいこく祭
1月中旬頃の週末に開催されるだいこく祭は、寒中禊がまん会、四條流庖丁儀式、祈願串成就祭で成る。寒中禊がまん会は、男性は褌で、女性は白装束で、冷水を浴びて身を清める行事。四條流庖丁儀式では日本料理の庖丁儀式が奉納される。祈願串成就祭は祈願串奉納者の願成就を祈る儀式。この行事に関する詳細は「神田明神 だいこく祭」の記事を参照。
2月3日 - 節分祭
2月3日の節分祭は、都内では比較的大き目の節分行事。練り行列が境内に入場し、拝殿での儀式や鳳凰殿での鳴弦の儀を経て、豆まきが始まる。当行事の詳細については「神田明神 節分祭」の記事を参照。
<5月 - 神田祭
西暦奇数年の5月初旬に行われる神田祭は、赤坂日枝神社の山王祭と共に天下祭として江戸城で将軍の上覧に供された、知名度・規模ともに都内でも有数の祭礼。江戸三大祭や日本三大祭の一つに数えることもある。
土曜の神幸祭では鳳輦2基と宮神輿1基が氏子域を丸一日かけて巡行する。翌日の神輿宮入では終日、氏子108ヶ町から町神輿が宮入りする。この行事についての詳細は「神田明神 神田祭」の記事を参照。
8月 - 納涼祭り
平将門の首塚
将門首塚は、大手町の高層ビル街の一角にある平将門(神田明神の祭神3柱のうちの1柱)の首塚伝承地。東京都指定旧跡で、都有地である。かつて神田明神はこの近辺にあった。
伝説では、京都で晒された反逆者将門の首級は東方に飛び去ってこの地に落ち、大地は鳴動した。その首を塚に葬って供養すると収まったという。鎌倉時代の徳治年間(1303-1308年)、平将門の墳墓周辺で疫病が流行し、将門は祟り神だと恐れられたが、時宗僧の真教が墳墓を修復し供養すると収束し、延慶2年(1309年)には将門は神田明神に合祀された。この地には天台宗の日輪寺という寺もあったが、この際に時宗に改められた。日輪寺(山号は神田山)はその後移転し、現在は台東区西浅草にあり、現在も将門の命日である2月14日に法要を営んでいる。
この首塚では9月の彼岸の日に塚前祭が執り行われ、神田明神の宮司による祝詞奏上と日輪寺住職による読経後、神田明神で将門塚例祭が催される。また5月の神田祭の神幸祭では鳳輦・神輿が立ち寄って神事を行う。
将門首塚は令和3年の整備で様変わりした。
日本各地の将門の墓・首塚
実は、将門の墓または首塚などと称する伝説地は、関東を中心に多数ある。例えば以下に列挙するようなものがある(将門の本拠地も茨城県周辺と言われ、実際伝承地もその周辺が一番多い)。
- 将門墓(茨城県守谷市高野の海禅寺内)
- 将門墓(茨城県桜川市大国玉の五輪塔)
- 将門の胴塚(茨城県坂東市神田山の延命院内)
- 将門の首塚(茨城県小美玉市西郷地の玉嵐殿雷神社内)
- 八幡神社(茨城県古河市高野。将門の首を当地に祈り落とし創建)
- 大原神社(栃木県足利市大前町。将門の胴体ありとも。手は五十部町の大手神社、足は樺崎町の子ノ権現に)
- 将門の胴塚(群馬県太田市只上の只上神社内)
- 将門の首塚(埼玉県幸手市神明内の浄誓寺内)
- 将門墓(千葉県取手市岡の大日山・仏島山)
- 将門墓(千葉県市原市惣社の国分寺の将門塔)
- 将門の首塚(千葉県市川市八幡の八幡知らずの森の伝説の1つ)
- 将門墓(千葉市の千葉大病院の七天王塚の伝説の1つ)
- 将門墓(千葉県東金市御門の将門稲荷。将門の遺体を祀る)
- 兜神社(東京都中央区日本橋兜町。将門の首を兜ごと埋めたとも)
- マサカドサマ(東京都八王子市上恩方。将門の首を祀ったと伝)
- 将門墓(山梨県甲州市勝沼町の徳岩院の裏山にあり)
- 将門の首塚(岐阜県可児市中恵土)
- 御首神社(岐阜県大垣市荒尾町。飛ぶ将門の首を射落としたのを祀るとも)
- 将門の首塚(静岡県掛川市十九首塚の十九首塚)
- 将門の首塚(名古屋市南区の丹八山内)
- 将門首塚跡(京都市下京区の民家内)
これらの他にも、討たれた将門は影武者で本物は埼玉県吾野の奥で余生を送ったとか、鳥取県三朝町に逃亡して土着した、などの伝承がある。